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第74回

CDを製作してくれる会社を見つけ、タイトルは「Death13」と決めた。

既存の曲から収録曲を決め、レコーディングに入る。

しかし、このレコーディングがキッカケでKill=slaydは2つの障害に対面する事となる。

一つはTERUHIKOと他のメンバーとの不協和音。

もう一つはTOKIの歌唱力の問題。

楽曲自体がパンク調の曲が大勢を占めていたのと、ライヴハウスでの大音量での演奏では細かな音程のズレを把握しきれていなかった事がレコーディングという緻密な作業で一気に露呈されてしまった。

自分の音程の悪さに打ちのめされながらも、何とかレコーディングを終了させ、無事に「Death13」は完成した。

1993年10月の「Death13」発売記念LIVEは、新たな拠点として定着しつつあった市川CLUB GIOで行う事が決まり、オープニングアクトはGLAY、ゲストに当時、著名だった先輩バンドのセッションバンドを迎え、体制は万全。

この頃から雑誌の取材も来るようになり、Kill=slaydは若手のバンドの中でも頭一つ抜けた存在となった。

そして1994年。
1月にTERUHIKOが脱退。

新ベーシストにJUN=NAを迎え、TAKUROと二人で兼ねてより暖めていた企画「an Optic」を敢行。

奇しくもGLAYのメジャーデビュー時期と重なった事で、万全とは言えなくなった企画だったが結果的に大成功に終わらせる。

そして、満を持してのKill=slaydのワンマンライブが、あのBOOWYやBUCK-TICKを生み出した日本最高峰のライヴハウス、新宿LOFT(旧新宿LOFT)で行われる事が6月に決定した。

(CDも出し、an Opticも成功させた。ここが正念場だろう)

このワンマンLIVEが失敗すれば、Kill=slaydは大きく失速する事になるとTOKIは感じていた。

共に歩んでいたGLAYは既にメジャーデビューをし「もう一つの最高峰」であるライヴハウス目黒鹿鳴館をソールドアウトさせている。

TOKIはリーダーとして、レーベルのオーガナイザーとして「絶対に成功させなければいけない」という気概を持って、ワンマンライヴの日が来るのを待った。

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