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第96回

音楽の状況は明るい進展が見られなかったが、反比例するかの如く会社経営の方は順調に業績を伸ばしていた。

そんな中、仕事で区役所に立ち寄ったTOKIは、何気なく目に止まった張り紙で「里子制度」の仕組みを知る。

"里子"という言葉が持つ意味は何となく知ってはいたが、その言葉がずっと心に引っ掛かっていた為、インターネットで詳しく調べ、里子制度が持つ人間的な温もりと現実の厳しさに深い興味を抱くようになる。

それがキッカケとなり、区役所を介して地元の養護施設に支援物資の申込みをし、張り紙を見てから僅か一ヶ月足らずの間で施設の子供達と直接の交流を持つようになった。

この際、子供達から貰った一枚の手書きの手紙に「車とか服とか、今まで色んな物を手に入れてきたけど、この一枚の手紙の前には全て色褪せる」と心から感動したTOKIは、どんどん児童福祉の支援活動に傾倒していく事となる。


また同時に、音楽を仕事と捉える「企業人」の観点として「レコード会社という企業も、自分が経営している企業も同じただのイチ企業」と捉えだしたのもこの頃。

(会社ってのは人の容れ物に過ぎない。メジャーだのインディーズと言ってるヤツの気がしれない)

事実、TOKIの会社の総売上高は、かつて所属したメジャーのレコード会社の数百分の一の規模と人数なのに、十分の一程度の売上を計上しており、社員一人当たりの売上高や純利益の比率ならTOKIの会社の方が圧倒的に勝っていた。

(自分の会社で出した方がストレスが少なくて済むし、やりたいようにやれるかも)

そんな事が頭を過ぎっていた時、かつて大阪で知り合った一人のプロデューサーがTOKIの現状を聞きつけ、TOKIに連絡してきた。

「俺と一緒にやらないか?」

TOKIは会社の大きさではなく、その人の人となりで判断し、パートナーシップを組んだ。


2001年冬。

「灼熱」レコーディング。

2002年の春にはPV撮影をし、9月に念願のSTEALTHでシーンの復帰を飾った。

「灼熱」は各チャートはもちろん、国内屈指のメガストアである渋谷タワーレコードのチャートでも1位を獲得。

が、しかし、この頃には既にCD不況の嵐が市場を席巻しており、かつてインディーズレーベルを主宰し、かつてのCD市場を熟知していたTOKIには、当時の感覚と掛け離れた想像以上に少ない売れ枚数に大きく落胆する。

この時の事をTOKIが述懐する。

「いや、ビックリしましたよ。え?こんな枚数でも売れた方に入るの?ってね。
自分がレーベルを主宰していたのは1993〜1995年なんですけど、その頃より既に10分の1近く落ち込んでた記憶がある。
企業家としての視点で見ても、この市場の閉塞感の進行具合じゃ未来は無いな、と直感しましたね。
今は(2011年)もっと厳しい状況ですけど」

2003年初頭に2nd Singleをリリースするも、この時、事務所にSTEALTHの名称の使用権で米国から訴訟の準備があるとの連絡が入る。

それに対応する様々な案も出たが、TOKI、そして事務所共にSTEALTHの活動を終わらせる事に同意し、"ヴォーカリストTOKI”という存在はTOKIの意識の中で完全に消滅した。


(もう、俺には仕事しかない)

音楽の道を100%諦めたTOKIは完全にビジネスに徹し、いずれは親の愛に逸れた子供達の為に自ら施設を造り、そこで子供達に囲まれて生きていく。

(その理想を叶えるには…)

TOKIは必ず来るであろう"その時"を迎えるべく仕事に集中する。


2003年の夏の気配を感じる頃、その4年後には再びステージに立つ事になるという運命を知らずに。
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