------第91回



6年。


長いようで短かった6年。


20歳の時の交通事故は生存率30%の危機を2回も乗り越え、成功率30%の投薬治療も奇跡的に乗り越えての生還。


その身体の全てを賭して守ろうとした恋人も、バンドも失った。


それはTOKIの青春そのものであり、生きる意味そのものだった。


守るべき人も、自分の可能性を試す場所も、もう無い。


表情を失い生気を失う目。


虚ろな、ただただ虚ろな日々。


感情の無い機械のように、やらなければならない仕事に対峙していた。


Kill=slaydのファンクラブ「COSA・NOSTRA」の継続期間を決め、予後の残務処理を監督する。


バンドが終わったからって全てを投げ出すような事はできない。


誠実に日割り計算をしての返金作業。


事務所のスタッフがいくら止めてもTOKIは最後の最後は自分の手で、自分の目で業務を監督した。


疲れ果てて家に帰っても何もやる気が起きない。


あと1週間ほどでファンクラブの閉会作業も終わりを迎えようとしていたある日、一本の電話が鳴った。


母からだった。


「どうしたの?」
「うん、実は、こんな事言い辛いんだけど…」
「何?」
「実はね、お父さんの会社の経営が良くないらしいの。お父さん取締役だったでしょ?でも、取締役だから会社の危機には家とかの私財を投げ打ってでも経営再建に協力しなきゃいけないらしいんだけど、それを拒否したらしいのね。そしたら取締役を降ろされちゃって、給料が凄く減っちゃったの」
「うん」
「何とか協力してくれないかな?」


母が息子の自分に助けを求めている。


安易にそんな事を頼むような母ではない事はTOKIが一番良く知っている。


よほどの思いであり、よほどの窮状である事がすぐに分かった。


「わかった。ちょっとだけ時間をちょうだい?」
「うん、ありがとう。こんな事を頼みたくはなかったんだけど…」
「いやいや、いいんだよ。それじゃね」


この何もかもを失った状況下で親をも支えなければならない。


1998年の暮れ。


失意の底の中で重く圧し掛かる現実。


しかしTOKIは投げ出さなかった。


いや、投げ出せなかった。


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------第92回



ファンクラブの残務処理も終了し、ホッとしたのも束の間。


TOKIは実家を支えるべく思案を張り巡らした。


月に2〜3万円の仕送りをした程度で凌げる窮状ではない事は母から聞いていた。


最低でも年間に100〜200万円の援助が無ければ日常生活に何らかの支障が出る事も。


TOKIは母に働かせたくなかった。


結婚した当初から父方の祖父母と同居し、仕事が長く続かない父を支えながら4人の子供を育て、子供達が大きくなったと思ったら、痴呆気味となった祖父母の介助に明け暮れていた母。


母は一時だって泣き言一つ言わず、常に笑顔でいた、そんな母だけにTOKIは何としても母を支えたかった。


(いくら仕送りしたって仕送りは生活資金として溶けていくだろう。そうじゃなくて、生活に掛かるお金を恒常的に生み出す方法を考えなきゃダメだ)


レーベルオーナーとして辣腕を振るっていた時の経験が役に立つ。


TOKIは小さな事務所を擁したセレクトショップを用意し、そこを母に任せ、軌道に乗るまで経営は自分が見る、という方法を提案した。


余談だが、TOKIはKill=slaydで活動中、様々な企業から「ウチに来ないか?」CDプレスをお願いしていた会社の社長からは「私が引退したら君に会社を譲りたい」等々、TOKIの人間性やビジネスセンスは関係する企業のトップ達に非常に高く買われていた。


親の為に用意した場所が、TOKIが持つビジネスセンスが最も花開く場所になろうとは、この時はTOKI自身でさえも気付かないでいた。


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------第93回



1999年7月31日。


今日は盟友GLAYのビッグイベント。


20万人を動員する「GLAY EXPO'99 SURVIVAL」の日。


TOKIは彼らの記念すべき日に足を運んだ。


名実共に日本のスーパースターとなったGLAYだったが、開演前の楽屋では、出逢った時と何も変わらないTERU、HISASHI、JIRO、そしてTAKUROがいた。


この日発売された公演パンフレットに付属するCD、通称「本読みCD」にGLAYの4人や永井TOSHIと共にTOKIも参加していた為、その話に花が咲いた。


「TOKIさん!あのパンフ完売だって!」


TAKUROが言う。


「え?どれくらい売れたの?」
「6万部だってさ!スゲー!」


もう何もかもがケタ違いだった。


幕張を埋め尽くす人、人、人。


それが一度に移動する壮観さ。


更にチケットを買えなかった人の波が会場スペースの脇の道路、高架、あらゆる場所を埋め尽くしていく。


楽屋を後にし、ライヴを観賞。


この世のモノとは思えない程の人気。


そのあまりの凄まじさに言葉が出なかった。


終演後の関係者の雪隠攻めに遭うであろうメンバーを気遣い、TOKIは会場を後にし、明日8月1日に開業予定の自分の会社の最終調整をすべく事務所に向かった。


(アイツらは日本のスーパースターで、俺は明日をも知れないチンケな零細企業、か…)



90年代に活躍した無数のバンドの中で「成功」という二文字を手に出来たバンドは五指に余る。


その成功という一つの太陽の光が生み出す無数のビル群の影に比例するが如く夢半ばで挫折したミュージシャンがいる。



ここ数年のTOKIの言葉を借りれば、職業に貴賎(きせん)は無い。


どんな仕事でも等しく社会には必要であり存在意義があるものだが、この時のTOKIは、そんな言葉が受け容れられる程の余裕は無かった。


親を助けなければいけない状況、そしてKill=slaydの解散時のメンバーの言葉が人間不信とも言える心情をTOKIの中に作り出していた。


(俺はみっともないかもしれないけど、他に選択肢は無い、間違っちゃいない!間違ってない!これしか無いんだ、これしか…)


TOKIは自分に強く言い聞かせながら車を走らせた。


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------第94回



翌日。


今日から母と二人三脚のTOKIの第二の人生が幕を開けた。


始業してすぐ携帯電話が鳴る。


「ハイ、もしもし?」
「あ、TOKIさん?TAKUROっス。昨日何で帰っちゃったの?」
「いや、気を使わせちゃうかと思ってさ」
「な〜に言ってんのよ〜、で、TOKIさんの会社ってドコ?今、近くにセブンイレブンが見えるんですけど?」
「え?」
「ここから近いっスか?」
「ちょっと待て!もう来ちゃってんの?」
「ええ、大徳も一緒ッスよ」


電話を切り、慌てて外に出る。


すると


「あ!TOKIさんいたいた!」


と手を振るTAKUROと大徳。


「って大徳、仕事は大丈夫なのか?」
「TOKIさんの記念日じゃないスか、都合つけましたよ」
「うおっ、ここスか!スゲー!」
「こんな下町の零細企業に来なくてもいいのに…昨日のライヴ、TVで流れっ放しだぞ?忙しいだろ?」
「それはそれッスよ。それにしてもスゲーな〜」仕事そっちのけで会話。


同時に(何で俺なんかの為に、ここまでしてくれるんだろうか?)という思いがTOKIの心を埋め尽くす。


数時間後、


「じゃ、俺、大徳を空港まで送ってかなきゃなんで、これで帰ります。で、TOKIさん?」
「ん?」
「歌う事を諦めちゃダメだよ?」
「ん…うん」
「また電話します。それじゃ」


…自分の歌。


正直Kill=slaydはそんなに売れたバンドじゃない。


メジャーの契約をギリギリ更新出来る程度のセールスしか出せないバンドだった。


故に自分は歌う事には向いていないと思い始めていた。


というか、何としても企業を軌道に乗せ、親を支えなければいけない今の状況に際し、そう思う事で諦めをつけたかったのかもしれない。


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------第95回



起業して3ヶ月。


仕事は全く軌道に乗らなかった。


心配する母に「大丈夫だよ。必ず俺が何とかするから」と励ましながら、毎日深夜まで一人でアイデアを出し、準備し、実行。


それを繰り返す日々が続いた。


この頃、既に後の"STEALTH"で発表されるTAKUROからの楽曲選考を終えていて、デビューシングルとなる「灼熱」の他、数曲の提供を受けていた。


すると「TOKIがGLAYのTAKUROの楽曲提供を受けて活動するらしい」という情報を聞きつけた、かつてKill=slaydが所属していたレコード会社のディレクターから「ウチから出せないか?」という旨の連絡を受ける。


企業の経営を投げ出せない状況だったTOKIは、Kill=slayd所属時に経験した問題を全て払拭してくれるなら、という約束を前提に契約を了承。


GLAYの所属レコード会社の社長と引き合わせ、直接面談をさせて両社とも快諾。


順調に事が運ぶ流れになった。




そんな中、月を経ていく毎にTOKIの会社は徐々に軌道に乗り、従業員を1人、また1人と雇用するくらいにまでなった。


2000年7月には全くの異業種の部門を立ち上げ事業の拡大を計る。


するとこれが当たり、従業員が更に増え、TOKIは起業から僅か1年足らずで全ての事業を見事に軌道に乗せてみせた。


が、しかし遅々として一向に音楽の方が進まない。


「信頼してくれ!」と胸を叩いたディレクターも部署内の摩擦で配置換えとなり、業を煮やして連絡を取るも(来週には何とかするから!)とノラリクラリ引き伸ばされる。


(こんな状態をいつまでも続けさせる訳にはいかない)


と、スタッフの中でも取り分け交流があったディレクターの一人に


「ここだけの話だけど…ウチの会社はヤメた方がいい。このままじゃ一向に進まないよ。a社で信頼が置ける人間を紹介するから」


とa社のお偉方を紹介されて預かりとなるも、事実上数ヶ月放置とされる。


こんなレコード会社のタライ回しを4社ほど受け、辟易としたTOKIはレコード会社の人間との関わりを一切絶つようになる。


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------第96回



音楽の状況は明るい進展が見られなかったが、反比例するかの如く会社経営の方は順調に業績を伸ばしていた。


そんな中、仕事で区役所に立ち寄ったTOKIは、何気なく目に止まった張り紙で「里子制度」の仕組みを知る。


"里子"という言葉が持つ意味は何となく知ってはいたが、その言葉がずっと心に引っ掛かっていた為、インターネットで詳しく調べ、里子制度が持つ人間的な温もりと現実の厳しさに深い興味を抱くようになる。


それがキッカケとなり、区役所を介して地元の養護施設に支援物資の申込みをし、張り紙を見てから僅か一ヶ月足らずの間で施設の子供達と直接の交流を持つようになった。


この際、子供達から貰った一枚の手書きの手紙に「車とか服とか、今まで色んな物を手に入れてきたけど、この一枚の手紙の前には全て色褪せる」と心から感動したTOKIは、どんどん児童福祉の支援活動に傾倒していく事となる。



また同時に、音楽を仕事と捉える「企業人」の観点として「レコード会社という企業も、自分が経営している企業も同じただのイチ企業」と捉えだしたのもこの頃。


(会社ってのは人の容れ物に過ぎない。メジャーだのインディーズと言ってるヤツの気がしれない)


事実、TOKIの会社の総売上高は、かつて所属したメジャーのレコード会社の数百分の一の規模と人数なのに、十分の一程度の売上を計上しており、社員一人当たりの売上高や純利益の比率ならTOKIの会社の方が圧倒的に勝っていた。


(自分の会社で出した方がストレスが少なくて済むし、やりたいようにやれるかも)


そんな事が頭を過ぎっていた時、かつて大阪で知り合った一人のプロデューサーがTOKIの現状を聞きつけ、TOKIに連絡してきた。


「俺と一緒にやらないか?」


TOKIは会社の大きさではなく、その人の人となりで判断し、パートナーシップを組んだ。




2001年冬。


「灼熱」レコーディング。


2002年の春にはPV撮影をし、9月に念願のSTEALTHでシーンの復帰を飾った。


「灼熱」は各チャートはもちろん、国内屈指のメガストアである渋谷タワーレコードのチャートでも1位を獲得。


が、しかし、この頃には既にCD不況の嵐が市場を席巻しており、かつてインディーズレーベルを主宰し、かつてのCD市場を熟知していたTOKIには、当時の感覚と掛け離れた想像以上に少ない売れ枚数に大きく落胆する。


この時の事をTOKIが述懐する。


「いや、ビックリしましたよ。え?こんな枚数でも売れた方に入るの?ってね。自分がレーベルを主宰していたのは1993〜1995年なんですけど、その頃より既に10分の1近く落ち込んでた記憶がある。 企業家としての視点で見ても、この市場の閉塞感の進行具合じゃ未来は無いな、と直感しましたね。今は(2011年)もっと厳しい状況ですけど」


2003年初頭に2nd Singleをリリースするも、この時、事務所にSTEALTHの名称の使用権で米国から訴訟の準備があるとの連絡が入る。


それに対応する様々な案も出たが、TOKI、そして事務所共にSTEALTHの活動を終わらせる事に同意し、"ヴォーカリストTOKI”という存在はTOKIの意識の中で完全に消滅した。




(もう、俺には仕事しかない)


音楽の道を100%諦めたTOKIは完全にビジネスに徹し、いずれは親の愛に逸れた子供達の為に自ら施設を造り、そこで子供達に囲まれて生きていく。


(その理想を叶えるには…)


TOKIは必ず来るであろう"その時"を迎えるべく仕事に集中する。



2003年の夏の気配を感じる頃、その4年後には再びステージに立つ事になるという運命を知らずに。



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------第97回



迷いがなく、未練も無い。


そして


「どんなに貧しくても、どんなに苦しくても、分け隔てなく親の愛に包まれる大多数の命があるのに、それさえ与えられなかった子供達がいる。その子供達の未来の為に」


もう地位だの名声だの、そんなモノに興味はない。


命を費やせる大きな目標を見つけた。


この精神が大きな力となり、2004年は創業以来最高の業績を出し、翌2005年には上半期の段階で更に20%ほど上回るという、いわゆる向かうところ敵無しの状態となる。


その経営手腕は、取引先や接した人間からの口コミで広まり、それを知った経営者団体や雇用団体からも高い評価を受け、講師の依頼やビジネス機関誌のインタビュー、更にはローカルといえどTVの取材さえもくるようになった。


そしてかねてから会社の経営を見ていた顧問税理士からの薦めもあって多種多目的な複数事業を擁するグループ法人という形で登記をするまでに至った。


これが現在のC4の所属レーベル「Keasler Japan Limited」の母体となるConquest Groupの誕生である。


音楽で上手くいかず、母を支える為に始めた小さな会社が、これほどのものになるとはTOKI本人も想像し得なかった。


更にこの頃「思うように仕事が出来る環境設備」という事で自社ビルを取得する計画が持ち上がる。


(会社なんて人の容れ物でしかない)


と捉えていたTOKIは当初あまり気が進まなかったが、


"いずれはこのビルのフロアを使って養護施設が出来るかも"という思いや、

"人に気を使いすぎる祖母が心から安堵できる場所も用意出来るかも…"等々の、


やはりビルだけあって、その用途の可能性は計り知れない。


「よし、やってみるか、いや…絶対にやってやる!」と決意。


その決意が会社に更なる力を与える事となり、時価数億円というビルの取得に向けて動き出した。



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------第98回



「いや、あの頃の自分っていうのは、こんな風に思ってたんです。えっとね、まず、如何にミュージシャンなんてモノは社会的に信用を得られないか?という事ね。収入が不定期という事は社会的信用が得がたい。更に自分がやってきた、いわゆる"ヴィジュアル系バンド"で言うなら、白髪頭だったり中年太りでやれている例が見つからなかった。故に、ある程度の年齢までしか活躍できない割には、未来が約束されていない。何て儚くモロい職業だろうと。音楽をやるのはイイけど音楽以外の世界では相手にされないからって音楽に依存してズルズルやっていけば、薬物中毒のように最後はボロボロになって終わるのが目に見えてる。「職業と呼べるだけの観客もいない」、「ライヴハウスのステージだけでしか社会的に相手にされない」、そんな男になるのはゴメンだ!ってね。俺はヤメて良かった。きっと良かったんだって、まぁ、当時そんだけ思ってて、まさかまた自分がやるとは思わなかったです。人生ってのは本当にわからないです(苦笑)」


自分に音楽なんて必要ない。


音楽をやってるヤツに俺の力を証明してやる、と言わんばかりに仕事で実績を出す。


多分、そうする事が音楽の世界で生きていく事が出来なかった"ヴォーカリスト、TOKI"という存在に対してのレクイエムというべき意志。


悔しいのか、敵討ちのような感じだったのか、それは何とも形容しがたいが、TOKIの言っている事は一応の筋道は通っていると思う。


だが、アーティストやクリエイターというものは、その日暮らしが基本で、信用よりも何よりも己の生き様、生き方を貫く事に重きを置いているとも言える。


後にC4で復活するTOKIも、そういう心情でなければ再びシーンに戻る事は無かった筈なのだから。



起業から6年。


実績は右肩上がり。


まさに順風万端。



そんな時、一本の電話が鳴った。



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------第99回



2005年9月。


TAKUROから電話。


「TOKIさん?久しぶりにメシでも食わない?」

「あぁ、いいよ」


最後のライヴから6年。


音楽から引退してから約2年半。


二人の間に音楽関係の話は世間話や近況報告程度にはあったが、基本的には全くと言っていい程しない。


しかし、互いの誕生日や、年末年始、冠婚葬祭、もしくは悩み事に出くわした時には必ず会ったり連絡を取り合ったりしていた。


TOKIがKill=slaydを終え、STEALTHを終え、音楽人でなくなった途端に音楽での交流があった人間全てから連絡は来なくなったが、GLAYのメンバーだけが昔と少しも変わらぬ関係でいてくれた。


TOKIには、それが誇らしかったし、何より嬉しかった。


自分の音楽人生で残されたものは、かつてリリースしたCDやビデオ、そして音楽の関係を超えた友人としての彼らとの出逢い。


何も手に出来なかった訳ではない。


出逢いがあって、それが人間関係となって今も息衝いている。



待ち合わせ場所に向かい、TAKUROと落ち合う。


くだらない笑い話をしながら軽く食事をし、「少し歩きませんか?」というTAKUROの言葉に、陽が落ちかけた恵比寿の街の人通りの少ない場所を散策する。


「ちょっと困った話があるんですよ。その辺に座って聞いてもらえませんか?」


天現寺の高速道路の高架下で、いつもより多少神妙な面持ちなTAKURO。


「ん?あぁ」


自販機で缶ジュースを二つ買い、TAKUROに手渡しながら言われるがままに路肩に腰を下ろした。


「なに?どうしたの?」

「いや、事務所が大変な事になってるんですよ」

「大変って?」

「凄い負債を抱えちゃって…多分、近々倒産すると思います」

「え!?」

「ホラ、ウチって事務所もレコード会社も、ある意味一体じゃないですか?多分CDとかも当分出せなくなりますね」


ライヴは相変わらずドコでやっても超満員。


TVにだって相変わらず出ている。


なのに何故そんな事に?



詳しく事情を聞くと、もう立て直せる状況ではない事、そして会社の倒産劇にはよくありがちな危険な筋の人間の出入りもあるようで、全てのスタッフはもちろん、常に笑顔で親身になって傍にいたマネージャー、信頼を置いていたディレクター、家族ぐるみで付き合っていた取締役、その他、ありとあらゆる人間が事務所の象徴であり根幹である「GLAY」という存在からの飛ばっちりを逃れる為に離れていったという。


「何をどうして良いのか、さっぱりわからないんですよね…」



どんな窮地でも屈せず、類まれな行動力と厚い信用があり周りの誰もから頼りにされているTAKURO。


そんなTAKUROが言葉を詰まらせ気味になっている。


遠くを見つめるTAKUROの横顔を見て、TOKIは言った。



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------第100回



「そんなモンさ、GLAY自体に問題がある訳じゃないし、要は円滑に活動できる場所や仕組みを作れる人間がいればイイんじゃないの?」
「まぁ、そりゃそうですけど、音楽業界の誰もがビビっちゃって誰も手なんか貸してなんてくれませんよ。実際、こういう流れを察知した時に周りの人間が誰一人いなくなっちゃったし… 知り合いの色んな業界の人にも相談しましたけど、結局は誰も相手にしてくれなかったですもん」
「だからさ、そういう事も含めて何でも出来るヤリ手が一人でもいればイケるんじゃないかって言ってんのよ」
「え?誰かいるんですか?」
「俺だよ、俺。それこそカバン持ちでも何でもやってやるぞ。アハハ」
「は?!ナニ言ってんスか?だってTOKIさん自分の会社があるじゃないですか?しかもアレでしょ、今度ビル建てるとか言ってたじゃないですか?軌道に乗ってるんでしょ?」
「いや、こういう状況ともなればビルなんか要らないよ。会社の方は俺無しでも何とか稼動はすると思うけど無理っぽかったら閉めたって構わない。従業員には申し訳ないけど知人の同系列の会社を紹介して就職の問題はクリア出来るし…まぁ勝手な言い分かもしれないけど俺の会社を俺がどうしようと、それは俺の勝手にさせてもらう。ビルの為に貯めてある金があるから2〜3年は何もしないで楽勝で食っていけるし…、てか大体さ、そんな事イチイチ心配すんなよ」
「いや、でも!」
「まぁ、聞けよ」


TAKUROの言葉をTOKIは制止し、その胸の内を明かした。


「実は俺さ、6年前に起業する時に母さんに前もって一つだけ言ってた事があるんだよ。俺は何としても会社は軌道に乗せる。けど、もし万が一、万が一TAKURO達が困った時が来たら、その時は母さんにも苦労させちゃうかもしれない。それだけは解ってねって言ってあるんだ。だからさ、俺の事は他人だと思うなよ?俺はお前自身だと思ってくれていい。俺の身体は自分の身体だと思って何でも言えよ」
「TOKIさんに、そんな事させられないよ!」


TAKUROは大きく声を上げると頭を抱えてうずくまった。


「お前が困ってんのに指くわえて何もせず放っといたっていう方が俺にはよっぽど辛いんだって。あ!自慢じゃないけど俺はお前んトコのお偉いさんにレーベルの社長になってくれってお願いされた男だぞ?あとウチの会社の成長を見てくれれば分かると思うけど、俺は、まぁ自分で言うのもナンだけど、かなりヤリ手だと思うんだけどな…」
「TOKIさんが仕事が出来るなんてのは誰もが知ってますよ!」
「ならイイじゃない?」


TOKIの言葉に押し黙るTAKURO。


TOKIは続けた。


「お前はいつでも俺を助けてくれたじゃないか。たまには俺にもカッコつけさせてくれよ?」
「…じゃ、もし、もしですよ?俺、もうちょっと頑張ってみますけど、どうしてもダメだった時、その時は力を貸してくれますか?」
「俺はお前自身だって言ってんじゃないの。俺の意志も環境も一切気にする事はない。お前が「やれ!」って言ったら、どんな事でも100%必ずやる。俺に無理はない!って知ってるじゃないの?」
「そうでしたね」
「こういう時はホラ?」
「盛り上がってきたね〜!でしたっけ?」
「そうそう!」




STEALTH「アルストロメリア」のプロモーションの為に二人で出演した深夜のFMラジオでTAKUROの口から明かされた回想録。


この日の事を後日、TAKUROは言った。


「ああいう時にTOKIさんが支えてくれて、あんな言葉を言ってくれたってだけで、自分の人生は間違いじゃなかったと確信できた。その誇りが、これからのGLAYを支えていく大きな力になった」と。



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